要約すると原因は細川勝元の突然の政略変換、それと斯波義廉と山名宗全が見境無く軍事行動を起こす暴れん坊の畠山義就を味方に引き入れた事。
氏が「前の戦争(応仁の乱)で細川家の宝物が焼けた」と言った話が元ネタとなっている。 そのためいつしか、 義就は山名宗全側、政長は細川勝元側につくことになり、この畠山家の争いが応仁の乱の導火線へと変わっていったのです。 事態が動いたのは文明2年に大内軍が摂津国から南山城へ南下した時で、山城国と大和国を結ぶ重要拠点の木津を大内軍が攻めてきたため、筒井順永は木津防衛に向かい大内軍の進出を阻止した。
4大丈夫!大抵の人はふんわりとしかわかってない難しい戦乱だからね さて、この応仁の乱。 また、西軍について失脚したの子孫がに仕えてのに付けられるなど、生活が立ち行かなくなって公家身分を棄てる例もあった。 翌応仁2年(1468年)になってもこの状況に変化は見られなかったが、同年秋に入り事態は思わぬ展開を見せる。
その事からもわかる通り、「文政の政変」からは山名持豊 宗全 が主導して幕政が進められていた状態でした。 義政は当初、嫡流の義就に家督相続を命じますが、途中で、義就の従弟である庶流の政長に権利を譲るという優柔不断なことをおこないます。
12そして元々脆弱だった室町幕府の権威は、さらに衰えていくのです。 そこで後継者(9代将軍)候補として寺の僧籍に身を置いていた弟の「義視」に白羽の矢を立てました。
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