崇徳の出頭に伴い、藤原教長や源為義など上皇方の・は続々と投降した。 まことに人の所為にあらず。
しかし、この褒賞の差がかなり激しいものでした。 然る間去る七月九日の夜、太上天皇ひそかに城南の離宮を出でて、忽ちに洛東の旧院に幸して、戦場を其の処に占め、軍陣を其の中に結びて、頼長朝臣と狼戻の群を成して、梟悪の謀を企つ。 為朝の強弓は後年、負傷したが「我が朝無双の弓矢の達者なり」(『』建久2年 8月1条)と賞賛しており、事実であったことが分かる。
2…清盛の郎党• 当時13歳のを含めたわずか十数騎の旅であったことや『平家物語』(陽明本)にが念のために全員分の武装を用意していたとする記述から、清盛は事前に信頼・義朝らの挙兵を知っていた、あるいは清盛自身が乱の黒幕だったのではないか、という説が行われた(多賀宗隼「平家一門」『日本歴史』354号(1977年)や飯田悠紀子『保元・平治の乱』(教育社・1977年)の説)。 また、忠通は長い間男子に恵まれなかったため、弟の頼長を養子に迎えます。 経過 [ ] 『保元・平治合戦図屏風』(蔵)屋形から出る黒い鎧の武者が平清盛 挑発の開始 [ ] 鳥羽法皇が崩御して程なく、事態は急変する。
18京都大学図書館所蔵『下毛野氏系図』に実俊の名があり、その傍注に駿河守・平宗実の養子となり姓名を改めたと記されている(齋藤拓海「院政期の近衛官人と武士の関係--平実俊を通して」『日本歴史』746、2010年)。
17195)• こうしては即位しましたが、当然、 兄であるとの溝は深まります。 経験者の配流はの以来、400年ぶりの出来事でした。 忠実にすれば乱と無関係であることを主張するためには、頼長を見捨てるしかなかった。
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