衝背軍は突囲隊と合流したことで城内の糧食が欠乏している事を知り、早急に救援に向かうべく、12日を期して総攻撃を開始する事を決断する。
59月24日、政府軍の激しい砲撃に屈し、 西郷は城山で自刃した。 一度、西南戦争を忘れて、頭を真っ白にしてから以下を見ていただきたい。
15この戦いで薩軍の死傷者が8名ほどであったのに対し、征討軍の死傷者は95名ほどで、その上大砲2門・小銃48挺・弾薬など多数の軍需品を奪われた。 薩軍は、戦いの場を日向地方に移し再起を図るも、うまく行かず九州南部を転戦。
42:私学校と明治政府とのすれ違い 薩摩武士は戦国時代から強力だと恐れられてきた存在で、それは大久保など薩摩出身の彼らが一番よくわかっていました。 この地は左右に山があり、中央に広野が広がっているという地形となっており、征討軍はその地形に沿う形で陣を敷いていたため、薩軍は左右翼に分かれて山道から征討軍を奇襲し優位に立ったが、雨が降り進退の自由を失い、あと一歩のところで兵を引き揚げた。 特に薩摩藩は戦国時代、いやもっと遡って遥か昔から中央政権に対してある程度の独立を保ってきた土地なのです。
8維新の立役者を自負する薩長土肥の下級士族の怒りが強かった事が分かる。 その間、二月末頃から三月一日にかけて、桧垣直枝権少警視に引率された数百名の内務省警視局の巡査部隊(『騒擾雑誌』には「巡査」「査兵」「警視隊」と記されている)が大分県内に入ってくる。 ここに言う「召募兵」とは史料上の文脈から推して、既述の「召募士族隊」や「召募士族」と同一のもの、つまり県当局が独自に動員した士族兵と判断して間違いあるまい。
1したがって中津隊の動向は、彼らの企てが失敗したことと併わせて、大分県においても県下全域の士族に対する県側の信頼を喪失させたという事由から、まさに士族層の没落を招く決定的な要因になったと評価されなければならない。
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