出発に先立ち、同隊は沿線の村落や町役場に書簡で食糧・寝具・案内人の調達を依頼した。
1902-04 , , 工業館 , 2015年10月18日閲覧。 25日朝の遭難当時、村松は古館らと共に隊からはぐれ、青森を目指したが道を誤り、26日午後にこの小屋を見出した。
19担当の中原軍医が数年後に変死したことなどもあって、陸軍上層部による暗殺説もあるが、医学部麻酔科の教授が、内にある彰古館(医療史博物館)が所蔵する『陸軍軍医学会雑誌』の「明治三十五年凍傷患者治療景況」に記載された山口少佐の死亡状況を医学的に分析したところ、麻酔による心臓麻痺の可能性が高いと指摘した。 午後5時頃、馬立場から鳴沢へ向かう途中でソリによる運搬を断念、積み荷は各輸送隊員が分担して持つこととなったが、炊事用の銅釜を背負わされた者が最も悲惨だったという。 第7日 [ ] 、救助隊が神成大尉および及川伍長の遺体を収容し、各哨所も完成する。
7青森に向かって左手の田茂木野を目指す神成大尉一行数名と、右手の駒込澤沿いに進行し青森を目指す倉石大尉(山口少佐含む)の一行約20名である。
3『』の翻訳等で名高い。 また水野の死亡は通常24日とされる) 青森屯営 [ ] 青森では、天候が前日よりも良かったこともあり、古閑中尉以下40名は幸畑で粥を炊いて帰営を待った。
14さらに一部の将兵は田茂木野村の南端でかがり火を焚いて夜まで待った。 すぐ近くで及川篤三郎の遺体も発見されたが、2名の遺体を運ぶことはできず、目印を付けて後日収容することとし、後藤と重度の凍傷で倒れた救援隊員の計2名の生存者を救護して田茂木野へたどりついた。 午前2時頃、事態を重く見た山口少佐ら将校たちの協議の結果、行軍の目的は達成されたとして帰営を決定。
14よって、松木が主張するような「軍上層部による山口少佐謀殺説」は、それを裏付ける証拠もなく、以上のような時間的制約(すなわち、救出後わずか1日程度で陸軍大臣が師団長を通して連隊長に暗殺を命じることは時間的に不可能)もあり、謀殺の事実はほぼあり得ないと考えられる。
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