これを明治20年ごろに目指したのは、日本の翻訳の歴史を考えれば、とてつもないことだったと思える。 「文三をお勢の婿に」と考えていましたが、彼が役所をクビになると一転して冷たくあしらうなど、功利主義的な性格をしています。
20二葉亭のいう標準に合った訳文だと思えるかも知れないが、そうではない。 その内で、こう言やア 可笑 ( おか )しい様だけれども、若手でサ、原書も 些 ( ちっ )たア 噛 ( かじ )っていてサ、そうして事務を取らせて 捗 ( はか )の 往 ( い )く者と言ったら、マア我輩二三人だ。
おそらく、お勢の存在がなかったら、内海文三はきっぱりとした態度に出ることができただろう。 「翻訳」という特殊分野でしか通用しない文章になっている。
1二葉亭四迷は外国文に 「自ら一種の音調があって、声を出して読むとよく抑揚が整うている」ことに気づき、「苟〔いやし〕くも外国語を翻訳しようというからには、必ずやその文調 をも移さねばならぬ」と考え、これを「先ず形の上の標準とした」のである。 そ して、「外に翻訳の方法はないかと種々〔いろいろ〕研究してみると、ジュコーフスキー一流のやり方が面白いと思われた」という。
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