平安の貴族・藤原実資(さねすけ)の日記「小右記(しょうゆうき)」や道長自身の日記によると、道長はこの歌を寛仁2(1018)年10月16日に詠んだ。
18人の身体から、とめどがなく水が失われる様子がサイホンのように激しかったのでしょうか。 かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。 藤原道長らの母で、一条天皇・三条天皇のおばあちゃん。
7重要な事項を【コラム】として和歌・短歌の基本知識を余すところなく解説した入門書。 後一条天皇の即位から1年後、寛仁2年(1018)10月16日、道長の邸内で三番目の娘・威子が、天皇の「中宮」となったことを祝う宴が開催された。
19[参考]「末の松山」は、陸奥 みちのく の歌枕。
こうした中で詠まれた、「わが意に反して生きながらえたらなら、いつか恋しく思い出すに違いない。 【ぞ】 この世をばわが世と ぞ思ふ望月 もちづき のかけたることもなしと思へば 〈小右記 せういうき ・藤原道長 ふぢはらの/みちなが 〉 [訳]この世を自分の世と思い、この夜も私のための夜と思う。
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