明智城は、(京都から援軍を連れてやってきて、美濃国内に城を持たない)明智光綱の居城ではなく、明智光安の居城であり、明智光安は、明智城を実子・明智光春に譲るつもりでいたに違いない。
17天正7年(1579年)6月、丹波に自身の母親を人質として出して、本目の城(か)に招いた八上城主の・兄弟や従者11人を生け捕りにして安土に移送したが、信長の刺客に襲われた秀治は殺害され、秀尚以下残った者は磔にされた。 そもそも明智光秀の父親の名前からして不確定なのだ。
17この時ガラシャは、 「離婚をしたい」と宣教師に告白しています。 細川ガラシャの家系は現在まで残されている また、細川家に嫁いだ、明智光秀の娘・細川ガラシャによる明智の血は現代まで残り、第79代内閣総理大臣・細川護熙(ほそかわもりひろ)氏などを輩出しています。 越前国内で「一向一揆」と呼ばれる反乱が起こっていたため、「天下を取る」ために「京都へ進軍(上洛)」しても、成功確率は低かったでしょう。
20細川ガラシャは明智光秀の三女とされ、後にキリスト教に帰依して洗礼を受け「ガラシャ」の洗礼名を授かりました。