『富嶽三十六景 凱風快晴』 ふがくさんじゅうろっけい がいふうかいせい この絵が強烈なインパクトを与えた理由は、何よりもその配色にあります。 富岳三十六景 前北斎為一翁画 藍摺一枚 一枚ニ一景ズツ 追々出板 此絵は富士の形ちのその所によりて異なる事を示す 或は七里ヶ浜にて見るかたち 又は佃島より眺る景など 総て一ようならざるを著し 山水を習う者に便す 此のごとく追々彫刻すれば猶百にもあまるべし 三十六に限るにあらず — 柳亭種彦『正本製』(巻末広告)、 富嶽三十六景の好評によって、がやと並ぶジャンルとして確立された。 なお北斎は、三十六景の好評にこたえた富士連作の第二弾『富嶽百景』(薄墨摺 うすずみずり 半紙本全3冊)を引き続き刊行している。
3「前北斎為一筆」(「為」が正方形に近い、主版が藍摺)• 5cm(内寸) ・全面アクリル額 東海道五十三次(特大版を除く) 富嶽三十六景(特大版を除く)花鳥風月 東洲斎写楽 対応 横31. 浪はどんどん高くなり船は富士の波の頂上へ• 富士の峰が描かれない唯一の作品。
18版画でありながら、色鮮やかで描写も構図も自由自在なこの浮世絵は、19世紀に起こったジャポニスムによって、この作品は海外の人々にも知れ渡りました。 しかし、 であるがゆえに 作品へのダメージがあるのを避けるため いつでも展示しているわけではない ということです。 今は工場越しの風景となってしまいましたが、かつては名勝として知られていました。
10師の亡くなったあと、北斎は勝川派から離れ、京の琳派の流れをくむ俵屋宗理の名を継ぎ、町絵師として活動を始めました。 『冨嶽三十六景 尾州不二見原』 (ふがくさんじゅうろっけい びしゅうふじみがはら) 尾州不二見原の情景を描いた一枚で、富士山ははるか遠くに白く小さく描かれています。
浮世絵のできるまで 江戸時代当時の人々が手に取った物と同じ、摺りたての「復刻版浮世絵」ならではの色の鮮やかさと風合い。 「河村岷雪の『百富士』と北斎の富嶽図」『美学論究』第1号、文学部美学研究室、1961年、 67-84頁。